昭和43年7月6日 夜の御理解



 ね、けれども、なるほど、毎日毎日お参りもさしてもらいよる、一生懸命信心をさしてもらいよるけれどもです、ね。いろいろな場合に直面して自分の信心の中身がないと気付かして頂いたら、これはほんなもんではないということを分からしてもろうて、ね。裏もなからなければ表もないというような、信心に本気にならして頂かなければいけません、ね。これだから、自分だけしか分からん。(あともどり?)信心はでけん、ね。
 必ずしも日参りでお参りをすることだけがほんなもんということでもないのである、ね。問題は自分の心の中に頂いておるもの、ね。それがどんな場合でも、んならそれが笑うて受けられるとか、有り難く受けられるとか、いや、どういう場合であってもです、ね。例えばそれは痛い時に痛い思いをするようなことがあるけれども、そういう時であればあるほどにかえって元気が出るといったような内容をもっておるとするならば、そういう信心はもう間違いのない中身の信心を頂いとるんですから。それをいよいよ高めていくと。いよいよ、そこに本気で修養していくということになればね、おかげも伴うだろう、御神徳も頂いていけるだろう。
 信心はね、これは信心をしなければ頂けないのが御神徳、ね。ですから、御神徳というのは、そういう心の中にも形の上にもおかげを頂かせてもらえれるということ、ね。しかも、その内容がです、ね。間違いないものになっていけばいくほどに、ね、人を責める前に己を責めるというような、修養的な言葉がです、言わば信心のこれが本当の御教えとなって、自分のものになってくる。
 信心をぬきにしての、これを例えば言葉だけでだとするなら、これはどこまでも修養的な言葉である、ね。けれども、人を責める前に自分を責める、ね。責めて何が分かるかと。はあ、こちらの方が油が切れとったんだもんね、こちらの方がぜんまいが切れておったんだものねということが分かるから、そこが修繕ができる。ただ、責めただけじゃつまらん、ね。信心はそこなんです。
 そこが改められていくところにです、ね、本当に人どん責める段じゃあないな、自分を責めて自分が有り難うなっていく以外にはないということになってくるわけでございます、ね。ですから、まあ言うならば人の信心の足元どんが分かるぐらいなことでは、自分の信心はほんなもんじゃない時。人の不行状がわが身の不行状になることと仰るように、ね。それが身近なものであれば身近なものであるほどに、家内がでけんとか主人がでけんとか、それは、まあ見えますよね、でけんその姿が。けれどもそれは家内じゃないのです、主人じゃないのです、ね。
 自分自身の心の中を、私は責めるよい材料である。自分の心の中の欠陥を発見さしてもらうよいチャンスであると、私は分からしてもらわなきゃいけんとこう思う。どうぞ。



明渡真